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 およそ2時間後、練習を終えたわたしたちは、新宿駅へと向かっていた。途中、これから昼飯を食べに西口のファミリーレストランに行くという3人とは、大ガードがもうすぐそこというカラオケチェーン店の前で別れることとなった。「また明日」「気をつけて」「面接がんばってね」なんて言葉を各々交わし、去りゆく3人に手を振る。別れ際、やはり尻を見ているわたしがそこにいた。男の視点視線からだとどうなのだろう、むちっと白く熟れた原の肉感がよいのか、新鮮なもやしを意味ありげに睨む少女的坂本なのか、否、ちがう、そうじゃない、常に輝きが繚乱しているのは直子だろうと心の妖精がつぶやく。たしかに直子の尻は、ほどよい筋肉性、脂肪のさじ加減、骨格の緊張感が主体となっており、同時になにか大事なものを破綻させてしまうような美しさがあった。卑近な美は、冷酷な凶器となる。曇りかけて臭いがきつそうな空を眺めながら、ゆらゆら高鳴る尻への思いを必死に抑えようともがく。妄想が膨張する。渦のなかをたゆたう。頭のなかが好き勝手にコールドプレイの新曲を垂れ流す。3人の姿はもう見えない。いなくなった3人の面影を指でなぞるように、しばらくその場で立ち尽くす。けっこうな速度で頻繁に行き交う車のわずかな隙間から、大ガードの奥のほう、しみったれた居酒屋で鬱金茶と焼酎を毎晩飲み、あとはただひたすら死を待つのみといった爺ぃの姿が、もやっと一瞬見えたような気がした。

 精神が通っているとは思えない物体の集積をかき分け、中央・総武線のホームに着いたと思ったら、ちょうど電車が発車した直後のタイミングだった。携帯電話に表示される時刻を確認し、時間的にはまだ問題ないなと余裕をかましつつ次にくる電車を待つ。すぐ側にいるカップルらしき男女のじつにくだらない会話が、聞きたくもないのに耳に入ってきて疎ましいったらありゃしない。男が一方的に話し、女は聞き手に終始していた。ふたりの会話を聞くかぎり、悲しいほどつまらない男だと推測された。いわゆる俺ってさあ、あれだから、みたいな。ちょっと普通じゃないというか、変わり者だから、みたいな。変わってるよねってよく言われます、みたいな。高校の頃が一番バカやってたよ、おなじクラスのやつら、みんな笑ってたけど、みたいな。バンプの曲を初めて聴いたとき俺のことを歌っているんだと思った、みたいな。そんな需要のない話を男が男のくせに男だからか延々としておるのだ。安い。薄い。寒い。つまらん。他人の自己主張ほど煩わしいものがほかにあるだろうか。じわじわ聞かされるうちに、いいかげんうっとおしくなってきたので、どうにか場をやりすごそうと気を紛らわせようと思い、向かいのホームで別の電車を待つ人々の様子を伺ってみることにした。視線の先に女子大生ふうの女1、女2、どこか貧乏くさい家族連れ、スーツ姿のサラリーマンらに混じり、死者の魂のような存在がぽつん。つて立っていた。女、というか、見るからにまだ少女の匂いが残る、年はわたしとおなじぐらいであろうか、菫色の風呂敷を右手に持ち、黒い浴衣、原色の黄色を少し薄くした感じの帯、癖のない長い黒髪、化粧っけを感じさせない顔立ちが品のよさを際立たせていた。電車を待っているのだろうか。しかし妙に生気がない、若くして美しいのにもったいないほど表情は死人のようで、というより、むしろ死んでいると考えたほうが自然なのではと思っていたら、「まもなく電車が参ります」というアナウンスが聞こえてきて、反射的に一歩前へ出る。もう来るのか。電車。無念。もっと彼女を見ていたかったのに。カメラを持ってくればよかったな。ちと後悔。まあ、いい、またどこかで会えるといいなと考えているうち、やけにゆっくりと近づいてきた銀色の巨大な塊に視界全面が遮られていく。
 
 負のアドレナリンが分泌しまくるなか、無駄なエネルギーを浪費しながら、ぶつぶつと呪いをかけるかのように、血文字をつづるかのようになんとか履歴書を仕上げた頃には、原と直子の会話も落ち着きをみせ、坂本もチューニングを終えたようだ。

 「ワンツースリーフォー」という直子のカタカナ英語を号令に、わたしは住所不定の浮浪者に青白くて消え入りそうな儚さだと評価された二の腕にめいっぱい力を込め、わざとだろうといわんばかりの狂ったチューニング上等、渾身の轟音をかき鳴らす。原、坂本がそれに続く。非音楽的なアンサンブル、初っぱなからコードは破綻、支離滅裂のリフレインが無自覚なうねりを打ち、苦渋に満ちた空間を成形する。そこに直子の金属シャウトがからんできて、轟音に対抗するテンションでかぶりをふり、乱れた髪の隙間からほの見える表情はなんとも淫猥、まさに美の暴力と化していた。演奏中は精神が軽いカオスを生みだし、みな、阿呆になっていた。無謀な音量と狂いまくったチューニングのせいで音は切り裂かれ、無邪気に歪み、直子のすさまじい唾液攻撃によって顔面シャワー状態のマイクはお持ち帰りしたくなるほど臭そうだ。うげっ。気分よすぎて吐きそう。いっそ吐いてやろうか。いや、吐かないでおこうか。

 部屋のなかもまた軽いカオスに彩られていた。初めて睡眠薬を飲んだとき夢で見たことのある、あれはまるで異世界の建造物、世界観、あまたの白い粒が雪景色のようだ。顔をあげると、山姥が天井に這いつくばってこちらを見ていた。体に冷蔵庫を縄で縛りつけて担いでいる黒髪の女が、天井や壁沿いを高速で移動する。ミキサーを操作しているスーツ姿の小太りの変死体、床から吹きあがる紫色の煙。部屋の隅では豚の頭をなでながら、いたこが祈っていた。山姥とまた目が合う。なぜか笑っている山姥。黒髪の女は移動するのをやめ、肉を食らっていた。いたこが呼びだしたのか、ウイスキーの瓶を手にしたジム・モリソンが中央の直子になにか力を送っていた。しかし、そんなことなど知るかとばかりに叫びつづける直子の胆力といったらどうだ。原と坂本の姿はいつのまにか見えなくなっていた。そのかわり、部屋を飛び交う透明の妖魔が蛍光灯の光に反射してきれいだ。
 
 気がついたら、長イスの端のほうで紅鮭、揚げ物をちらつかせた弁当をくちゃくちゃ食っているオヤジと団欒中の原と坂本を鋭く眼光で促し、4人揃ってスタジオ内へと入った。入口の自動ドアが開いたとたん、いらっしゃいませ、と、ヘアワックスで可能なかぎり髪をおっ立て気分だけはジョン・ライドン、芥川かという店員がこちらを一瞥。若干呆けながらもそそくさとカウンターまで行き、店員に各々会員カードを提示し利用する部屋を選ぶといっても、貧乏文無し我ら不肖学生のご身分が借りられる部屋なんてのは、一番安いところと相場は決まっていた。ブロンズルームと呼ばれる部屋。同時に担当楽器のベースをいまだ購入していない坂本がレンタル品を選び終えたら、ブロンズルームへみなで向かう。ぶ厚い扉を開けると、一番安い部屋とはいえ、モニタースピーカー、ミキサー、ヴォーカルアンプ、ギターアンプ、ベースアンプ、マイクスタンド、ギタースタンド、譜面台、ドラムセット等々、練習に必要な機材は一通り揃っており、さしあたって不自由することはない。部屋に入るなり、坂本はベースのチューニングをはじめ、原は直子に「ねえねえ、いっぺん今度さ、ピチカート・ファイヴの曲練習しない?」といった話をふっている。直子にピチカート・ファイヴの話はいかがなものだろうと思いつつ、その隙を見、わたしは忘れないうちにと鞄からコンビニで買っておいた履歴書を取りだす。

 「ピチカート・ファイヴだかシックスだかセックスだか知らないけど、それ練習してどうするつもりなの?」直子はあきらかに自分の興味のない話題のとき、笑顔を絶やさないまま事務的な態度をとるきらいがあった。いまがまさにそれだ。

 「や、だから練習してさ、ちゃんとできるようになったら、したら、メッセージ・ソングとかライヴで盛り上がるんじゃないかなって思ってさ。1曲ぐらいいいじゃん、まともに歌う曲があってもさ」
 「まともに歌う曲ねえ。つーか、それどういう意味?」
 「ああ、いやあ、だからさ、毎回毎回なに、わーだの、うぎゃーだの、コートジボアーだの叫んでるだけじゃ、演ってるほうも聴いてるほうもさすがに飽きてくるって話でもあんじゃん。だいたいなんで、コートジボアールなのかよくわかんないし」
 「だってノイズじゃん、うちらやってんの。ノイズっつったら、ふつう叫ぶでしょ、コートジボアールは」
 「叫ばないよ。直子だけだよ、そんなこと叫んでるの」
 「そうなのかなあ。だっていま、燃えてるよ、コートジボアール、いろんな意味で」

 どんな意味で燃えているのか気になったが、とりあえず、いまわたしが優先すべきは履歴書だ。しかし、このなんだろう、履歴書を書くという行為の不毛さ、徒労感はと思う。氏名を書く。ふりながをふる。住所を書く。ふりがなをふる。ここまでは、まあいい。25歩ほど譲って、よしとしよう。が、問題はそこからだ。学歴、どこの中学校を卒業しただとか、どこの高校に入ったかだとか、たかだかアルバイトを雇うのにそこまでのことを知ってどうするというんだろう。どうしても知りたいのなら、最終学歴だけ書いてりゃいいと思うんだけど、だめなのか、それだと。んなら、なにがどうだめなのか、論理的に説明してもらいたいぐらいだ。それに志望動機、どうせほんとうのことなんか書くわけないんだし、面接するときにも律儀に確認するんだろうから、まったくもって意味がないよ。こちとら日本人、「店暇そうだし、楽なとこじゃないと続かないんだよーん」とは書けないんだから。汲んでよ、と切に言いたい。というか、メールですませられんじゃん、こんなもの。書かれた字の丁寧さ、質感などで人間性が窺い知れる? いやいや、そういうのを大人の思いあがりというんじゃないのでしょうか。
 
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